大意)人の悪いところを叱責するときは、ものすごく厳しくやるのではなく、相手がどこまで受け入れられるかを考える必要がある。人に善いことを教えるときは、あまりにも高度なことを要求するのではなく、確実にできる範囲を教えるべきである。

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タイトルの「攻」という漢字ですが、「責」の間違いではありません。訓読みにすると、どちらも「せむる」(せめる)なのですが、日本語では若干意味が違います。「悪を責むる」が今では普通でしょうが、訓読みが同じだと、元の漢語も同じような意味を持つという1つの例です。

さて、この「全部読み『菜根譚』」というカテゴリは、心の調子が悪かった時に始めました。当初は、そこから立ち直るのが目的だったんですね。で、立ち直ってしまったので、しばらく休んでいました。

ところが、今度はちょっと慢心している気がしてきました。実際、小さな失敗をいくつかしています。なので、気を引き締めようと思い、再開したのです。

すると、タイムリーですね。言葉遣い等は気をつけてはいるのだけど、何となく他人を「攻める」ようなことが増えていたように思います。

僕の場合は、人を責める人にちょっと違和感があり、それでいろんなところでそういう人に対する文句を言ったり、書いたりしていました。

怒ってはいないのだけど、強烈な表現をすることもあり、自分自身に対して何だかなあと思うようになっていたのです。だって、動機は違えども同じ穴のムジナじゃないですか。

そんなときに、久しぶりに『菜根譚』を開くと、こんな言葉が書いてあるわけで、ちょっと驚いた次第です。

人を責めるのも、人に高いレベルを求めるのも、全ては慢心のなせるワザだと思います。自分のレベルはまだまだと思い、精一杯精進に努めていれば、そんな暇はないはずだからです。

もし何かを言うにしても、ユーモアやたとえ話のオブラートに包むようにしたいと思います。これはストレートに何かを言うより100倍ぐらい難しいことなので、よほど違和感を感じた時にしかできないでしょう。なので、ストッパーにもなり得ますし。