カテゴリ名称を「ずっと自由を求めてきた」から「結局何者にもなれそうにないがそれは幸せかもしれない」に変えた。

世の中の人が自由を求めつつ、叶えられないのではないかと思っていたのだが、それは大きなお世話だったかもしれない。むしろ、何者にもなれないことを恐れている人が多いんじゃないかと思うようになったからだ。

そういう人が多少なりとも安心できることを書きたい。

僕も若いころは漠然と何者かになれるのではないかと思っていた。ただ、それは漠然とであって明確なイメージはなかった。

何者かになっている人は、明確なイメージがある。漠然と金持ちになりたいとかスターになりたいとかいう人はなかなか成功しないように思う。僕にはイメージがなかった。

何者かになっている人は、努力している。僕はそもそも努力が嫌いだ。コツコツとやるのが苦手だ。これではとてもではないが何者かにはなれない。

それで、せめて一念発起して40歳で始めていれば、何とかなったかもしれない。

僕ももうすぐ54歳だ。いや、60歳から成功した人だっている、54歳で手遅れということはなかろうと励ましてくれる人もいるかもしれない。

しかしそれは特殊な例だし、それよりもモチベーションがなくなってしまったのが大きい。

というのは、何者になれなくてもなんとなく幸せだと分かったからだ。これは別にあきらめではない。むしろ何者かになったらそれが幸せとは思えなくなった。

何者かになると、世間から監視される。いつ袋叩きにされるか分からない。

何者かになるには、たくさんの人の支援・応援が必要だ。その分しがらみが多く、あまり自由にふるまえなくなる。付き合いたくない人とも付き合う必要が出てくる。

何者かになると、知りもしない人から悪評を立てられる。小さなミスが取りざたされる。事実ならまだあきらめもつくが、尾ひれがついたり、事実無根だったりすることで責められる。

何者かになると、欲深くなる。今達成していることは当たり前になるので、次が必ず欲しくなる。キリがない。

何者かになると、人格ではなく、金や名声に人が集まってくると思うようになる。人間不信になり、金や名声を失ったら誰も寄ってこないのでは不安になる。それどころか自分の金を狙う悪党に取り囲まれているような気持になる。

何者かになっていないので上は想像に過ぎない。そうでない「何者」もいるだろう。僻みもあるに違いない。ただ、こういう人が多いのは、依存症や問題行動を起こすセレブ、高額クジの当選者の末路などから考えるとあながち大間違いでもなかろう。

なので、何者にもなれないことを、幸せに思う必要もないが(僕は幸せだとしても)、あまり気にしないことはお勧めしたい。

長くなってしまったが、昨日Facebookに投稿した文章を引用して終わろう。

あんまり成長しようとか立派になろうとかってことにとらわれないほうがいいと思うんだけどね。

そんなことばかり考えて、いつ自分の人生を楽しむんだい?

僕には、マイケル・ジャクソンもスティーブ・ジョブズも素晴らしい人生だったかもしれないが、楽しい人生だったとはとても思えないんだよね。

むしろ名はなくても晴れた日の昼間から漁が終わったんてんで、ニコニコしながら飲んでるオヤジのほうが絶対に楽しそうだ。

もっとラテンに、もっと江戸っ子に生きようよ。

金があっても楽しめないと同じぐらい、金がなくても楽しめる。

あと、思い出があれば笑って死ねる。なけりゃ後悔ばかりして死ぬ。で、双方に大した体験の違いもない。たとえばただ桜を見たことをどれだけ違う気持ちで見たかだけだ。