(大意)道が狭ければ、一歩下がって人に譲ろう。美味しい食べものは、3割ぐらいを人に譲ろう。これこそが、最高の安楽の道である。 |
有名な話を思い出しました。
地獄も極楽も同じように食べ物があるのだけど、1mもあるような長い箸でないと食べられない。
地獄では、みんな我先に食べようとするのだけど、箸が長くて食べられず、みんなが飢えている。
一方、極楽では、みんながほかの人に食べさせてあげるので、いつも満たされている。
地獄にも極楽にも同じものがあるのに、心がけ次第で結果は全く違うことになる――という説話です。
僕は『エースをねらえ!』かなんかで知りました。お経に書いてある話とのことでしたが、原典は知りません。ネットで軽く調べてみたけれど、ネットにうつつを抜かしている人たち(僕もそうですが)は、原典なんか気にしないようで、わかりませんでした。
まあ、地獄の人は箸など使わず直接食らいつけばいいというツッコミもありますが、そこは何か設定があるのでしょう。
譲り合いといえば、こんな話もあります。→ 「リンゴ異文化騒動記」
なかなか秀逸なWeb絵本です。何が言いたいのかが、少し難解なのですが、身につまされる部分はあります。たぶん、話し合いが大事だと言いたいのでしょう(←小学校の道徳の時間なら100点を貰えそうですが、大学なら不可を食らいそうです)。
日本には古来、譲られても3回断ってから受けるというマナーがあります。うちの母親の世代だと、このマナーを忠実に守るため、子供の頃それを見ていて非効率だなと思いました。ちょうど、先ほどの絵本の4ページ目の状況がしばらく続くのです。
これも、時代が変わって、今は2回でいいと、あるマナーの先生がテレビで話していました。僕らの世代が年寄りになりつつあるということですね。まあ、車だと1回で行かないと、後ろからクラクションを鳴らされますけど。
車で思い出しましたが、僕の昔の彼女は、渋滞のときに自分の車線に入ってこようとする車を決して入れないタイプでした。その性格で不幸になっていないか心配です。ただ、関西には多いタイプです。
余談が過ぎました。『菜根譚』のほうに戻ると、先に人に譲りましょうという話ですが、もう少し、あと2cmぐらい深いことを言えば、これは人の役に立つことをいつも心がけましょうということだと思うのです。
僕の場合、有名になりたいとか賞賛されたいとか価値を認めて欲しい(=高い報酬の仕事をよこせ)とか、そっちの方向に気づかないうちに行ってしまっていることがよくあります。
すると突然仕事が減り、預金残高が減り、心のゆとりが減り、もう死にたいなどと口走って友人の共感まで減り、そこでようやく気がつくわけです。僕には人の役立とうという気持ちがなくなっていたな、と。
気づけば、あとは簡単なのです。
自分は何で役に立てるかをよーく考え直し、それに注力する。そうすると、なぜか復活の兆しが見えてくるのです。こればっかりは本当に不思議です。僕のこの決意を知らないはずの人から仕事が来るからです。
それも良い順番で仕事が来たりする。前の仕事が次につながるような、逆の順番だったら失敗していたと思われるような仕事の来方なんです。こういうときは、無神論者の僕も天の意思のようなものを感じてしまいます。
まあ、こういう繰り返しもしんどいので、常にこの気持ちを忘れないようになる方法を知りたいのですが、まだ見つけられないでいます。このブログを書いているのは、それを見つけたいという気持ちからです。