(大意)友と交わるには3分の侠気が欲しいところ。人として生きるならわずかでもピュアな心が欲しいところ。 |
「侠気」と書いて「おとこぎ」と読む。男女差別的でいかがなものかとも思いますが、『菜根譚』は明の時代に書かれたものなのでご容赦ください。それに、最近は女性のほうが「侠気」を大事にされているような気もしますし。
「おとこぎ」などと言うからいけない。「犠牲心」と書けばいい。そんな気もしますが、とんねるずに汚されちまった「おとこぎ」をちょっと考えなおしてみるきっかけになればいいかなと、そういう想いもあります。
などと書いておきながら、「侠気」の考察もないわけですが。
ポイントは、3分でいい(須帯三分侠気)とか、わずかでいい(要在一点素心)とか、この腰が引けた要請の仕方でしょう。
洪自誠は要するに、世の中の人は三分の侠気もないし一点の素心もないから、ちょっとでもあれば大したものだと、ものすごい皮肉を言っているわけです。
ということで、僕も無理せず三分の侠気で友人たちと交際し、一点の素心で生きていこうと思います。
侠気でいっぱいだとちょっと恐い人達みたいですし、いい年して「ピュアピュアリップス、気持ちはイエス」では気味悪いです。
人間無理しないことです。無理して付き合ってくれる人は重たいし、無理して生きている人は見ていて辛いです。