(大意)糞の中の虫はこの上なく汚いが、変態して蝉となり白露を秋風の中で飲む。腐った草には光などないが、変化して蛍になると、美しく清らかな光を夏の月夜に輝かせる。これらから分かることは、清いものは常に汚れたものから出て、明るさはいつも暗闇から生じるということだ。 |
前回が12月8日の投稿なので、2カ月以上ぶりです。慢心したり、落ち込んだりしたら書いているこのカテゴリですが、その間このようなことがなかったかといえば、何度もあったような気がします。やはり、せめて週に1回は書かないといけない(『菜根譚』を読まないといけない)なと反省しています。
自分のことはさておき、今回はいろんな解釈ができます。
「清濁併せ呑む」という言葉があります。これに近い気もします。世の中きれいごとだけじゃないんだよ、と。
このこと自体は間違いではありませんが、ぴったりではありません。
では、『巨人の星』の花形満のセリフとして有名な「優雅に泳ぐ白鳥も水面下では激しく足を動かしている」はどうでしょうか?
これは、天才も努力しているというたとえで、近い感じもしますが、やはりぴったりきません(ちなみに、本当の白鳥はあまり激しく足を動かしていないそうです。スワン型のボートからの勝手なイメージなのでしょうか?)。
まあ、これらのことが思い出されるだけでも、読んだ甲斐があったと思いますが、ちょっと違う。何が違うかといえば、上の2つは現在の話だが、今回のは過去から現在という時間的な変化を伴う話だという点でしょうか。
今すごくもがき苦しんでいて真っ暗闇の中に生きているという風に感じたとしても、そういう時期があるからこそ、美しく明るく輝くのだという希望の話なのです。
そういう意味では、「止まない雨はない」、あるいは「明けない夜はない」に近い言葉のように思えます。
落ち込んでいる場合ではないと励まされました(実は、ちょっと落ち込んでいました)。