(大意)平凡な人間と生まれて、大した事業を成し得なくても、俗な心と無縁ならば、それだけで名士の仲間に入れる。学問をなして、特に知識を増やそうとしなくても、心が不自由になることを遠ざければ、それだけで聖人の域に至ることができる。 |
かなり意訳しましたが、主旨は外していないかなと思います。
今風に言ってしまうと、「自己承認欲求から自由になれば、あなたの人生成功ですよ!」ということでしょうか?
上の「俗な心」とか「心が不自由になること」とかいうのは、まさに「自己承認欲求」なのですが、そこまで意訳しちゃうと。書くことが4行ほど少なくなるので、あえてそこまでしませんでした。
「自己承認欲求」については、小野ほりでい先生が面白おかしく解説してくれていますので、そちらを参照してください。笑えます。
とはいえ、「自己承認」の欲求のない人などいません。誰も認めてくれなきゃ、舌を噛み切りたくなりますよね。
でも、いくら栄華を極めても、いくらネットで知識をひけらかしても、自己承認欲求が満たされることはないのです。かえって、ネットで叩かれるだけ(あるいは嗤われるだけ)。ますます自己承認欲求が満たされないという悪循環に陥るだけです。
自己承認欲求が満たされる言葉は、「すごいですね」じゃないのです。
「ありがとう」、「助かりました」だし、「いつも見ています」なのです。
だとすれば、前回の話とも重なりますが、無心に人の役に立つことを目指すしかないと思うのです。
そういう人は「名士」あるいは「聖人」だと誰でも思うし、結局お金にも不自由しなくなるはずです。
と、信じて頑張ろうと思っているんですけどね、僕も「自己承認欲求」の塊だと、友人・知人・配偶者からのイタい指摘を受けるたびに思い知るわけです。