(大意)夜が老けて人が寝静まった時、一人坐して瞑想すると、ようやく妄念が働かなくなり、真心だけが表に出てくるイメージが湧いてくる。こういう状態になればいつも、大いなる集中力を得ることができる。真心が現れているのに妄念から逃れられないとを感じれば、ひどく落ち込む。

2014082001

テキストの訳文がしっくりこなかったので、自分なりに訳し直しました。

特に「大機趣」という言葉がわかりませんでした。これは辞書にも載っていません。テキストの訳文では、「自由自在にはたらく心の動き」とあるのですが、これはかなりの意訳と思われました。

「大」は、「大きな」とか「大いなる」という訳で良いでしょう。先に「趣」を考えると、これは「おもむく」という訓があるように、「ある方向に進む」という意味です。問題は「機」で、これにはたくさんの意味があります。ここでは心の話をしているので、「細かい心の動き」がしっくりきます。「機転」や「機微」などで使われる「機」です。

だとすれば、「大機趣」とは「大きく心が何かに向かって進んでいく」(状態)ということです。そこで、上のように「大いなる集中力」と訳しました。

僕は座禅をしたことはありませんが、瞑想ならあります。瞑想にはいろいろなやり方がありますが、僕がたまにやるのは、何でもいいから頭の中にモノを描くというものです。

リンゴならリンゴと決めると、それを頭の中でリアルにイメージするのです。邪念があるとなかなかイメージできません。呼吸を整えることも必要です。

イメージできたときには、「大いなる集中力」が働いています。この集中力のおかげで、邪念がなくなって心が澄み渡り、いろいろな考えが自由に湧いてくるようになります。

「大機趣」とはたぶんこういう状態だと思うのです。なので、「自由自在にはたらく心の動き」という訳も間違いではありませんが、ちょっと意訳過ぎるかなとも思うのです(「大機趣」のワンステップ先の話なので)。

いつまでもイメージできないときもあります。そういうときは、悩みや迷いがどうしても頭から離れないときです。

『菜根譚』の著者洪自誠は、こういうとき「大懺忸を得」と書いていますが、要するに「大きく落ち込む」ということでしょう。

このように、その日の状態によって何も得られない日もありますが(そういう日は寝てしまうことです)、いずれにしろ自分と向き合う機会を定期的に作ることは、生きる上で必須のことではないでしょうか?